底辺の日記

底辺が日常の何かを脈絡もなく書き散らかします。英語のお話、日本語のお話などなど

日本語のとりたて詞について

日本語には「とりたて詞」と言われる一群の語句があります。例えば、「君が彼を殺した」と言う時の「が」は他の誰でもなく君がという風に、主語の「君」をとりたてます。

前にそんなとりたて詞について大学でレポートを書いたのを思い出したので、どうせならと思い、取り上げてみました。全部読むのはとても退屈な気もするので、最後に辞書の項目風にしたものを載せます。それだけ読んでいただければ大体わかると思います(゚∀゚)

 

私達が日々使っている日本語も考えてみると面白いと思っていただければ嬉しいです。

 

 

レポート

  1. はじめに

 初年次ゼミナール日本語学辞典を作ろうという本講義で、自分がとりたて詞について研究し、授業内で行った発表に対して出た一つの質問が今回の研究レポートのテーマを考える上で浮かんだ。その質問は「副助詞と係助詞ととりたて詞ではどういう相互関係があるのか」というものであり、その場では明確な答えを出すことができなかったため、個人的に調べてみたところ学者によって分類が違い、明確な答えが出ない。というのも、完成稿にも記した通りとりたて詞というものが、従来の係助詞と副助詞という分類を取り払い、その中から共通の統語論的・意味論的特徴を持つものをまとめた分類であるというのは間違いないのだが、日本語助詞研究に大きな成果を残した山田・橋本などの係助詞・副助詞の定義は曖昧であったり、妥当性を欠いていたりしたために、これと言って定まるところがなかったからだ。現在に至っても、副助詞・係助詞という分類が行われるべきとする説と、とりたて詞として一括で扱うべきという説が混在している。これを踏まえて、本稿ではとりたて詞という分類を再考し、係助詞・副助詞分類をするメリット・デメリットを考慮しながら、今後の研究はどちらの分類に妥当性があるのかを明らかにしたい。

 

 

  1. 先行研究

 とりたて詞という分類に関する詳しい先行研究のまとめは沼田(2009)にあるため、本稿では軽く扱うにとどめる。

 まず、初めて「取立て助詞」という用語を用いたのは宮田(1948)であり、「取立て助詞というのは句の一部を特に取立てて、その部分をそれぞれ別の意味において強調する助詞である。」と定義した。しかし、宮田の分類では一般的な文法分類における係助詞に限定されたものであった点や、意味分類の適当性の点などで疑問の余地が多い。

 奥津(1973、1974)は従来の副助詞・係助詞を「形式副詞」「不定数量限定詞」「とりたて詞」「並列接続助詞」に分類した。この研究は統語論的特徴によって明確な品詞分類がなされている点が新しかった。

 寺村(1981)は従来の副助詞・係助詞を「取立て助詞」として一括した。これを「コトを描くにあたって、あるいは描き上げつつ、それの付着する構文要素を際立たせ、そのことによって自分のコトに対する見方を相手に示そうとする」と定義している。また統語論的特徴として、分布の任意性に触れていたが、他の要素に触れておらず、十分とはいえない。

 沼田(2009)は奥津(1973、1974)の方針を受け継ぎ、発展させる形で意味論的特徴・統語論的特徴から「とりたて詞」というものをかなり具体的に記述している。沼田の研究についてはとりたて詞研究を総括したような形であり、妥当性が認められるため、本稿では基本的に沼田(2009)のとりたて詞分析を肯定した形で論を展開することとするため、この研究は後の章で詳しく取り上げる。

 青柳宏(2007)は沼田・奥津を始めとした研究者とはスタンスを変え、理論言語学の立場から、Chomskyの生成文法理論を用いたとりたて詞研究を行い、伝統的国語学で山田・橋本などが主張した係助詞・副助詞の区別は焦点結合の最大領域や同一単文内の他の数量詞との相対的作用域の違いを説明するために不可欠なものであると主張した。この研究についても沼田らのとりたて詞を一つの括りとしてみなすべきとする意見に対立する研究であり、本稿の重要な考察対象となるため、後に再び取り上げる。

 

 

  1. 考察
  2. 従来の係助詞・副助詞分類の問題点

 山田(1936)では係助詞を「陳述をなす用語に関係ある後に附属して、その陳述に勢力を及ぼすもの」とし、属する語として「は」「も」「こそ」「さえ」「でも」「ほか」「しか」を挙げているが、奥津(1986)でも指摘されている通り、陳述に勢力が及ぶという定義は山田が挙げている語のうち「は」にしか当てはまらない。というのは、以下の例を見れば分かるように、連体修飾文内で使われ、文末の陳述まで係助詞の勢力は及んでいないがどれも成文となっているからだ。

例 1.私も知っている事実

   2.次郎にこそ話したい事実

  3.子供さえ分かること

   4.太郎にしか出来ない仕事                  (奥津(1986)から改変)

ゆえに、山田の言うような係助詞は多くが成立しなくなるという点で大きな問題を抱えていた。

 橋本(1969)は係助詞を「つづく助詞で、用言につづく種々の語(並びに之に附属辞をつけたもの)につく。さうしてそのつづきやうに或修飾制限を加へるもの」としている。山田と異なる点としては、陳述に勢力を及ぼすという風には考えなかったが「そのつづきやうに或修飾制限を加へるもの」というのは定義として極めて曖昧である。一方副助詞は同じく橋本(1969)に於いて「それ自らでは、きれつづきの明でないもので、用言につづく語については、係助詞の如く、その語と用言とのつづきやうを修飾制限する。又体現又は用言については、これと共に、文節構成の要素として体現と同じように用ゐられる。つまり連用的用法と体言適用法・・・(中略)・・・とを兼ねてゐるもの」と定義されている。奥津(1986)ではこれは分布という基準から見ればある程度妥当であるが、文法的に見ると不適切ではないかと指摘されている。橋本は副助詞が連用的用法と体言的用法を兼ねると言っているが、連用的用法は副詞の働きであり、体言的用法は名詞のそれであるのだから、名詞と副詞が基本的品詞として分類される以上これらを混同する説には合理性が欠ける上、橋本のいう係助詞が連用的なものであるなら、副助詞の連用的用法は係助詞に統合されるべきではないかという指摘だ。更には、根本的に係助詞に連用的な働きはなく、副助詞にも連用的及び体言的働きなどないということを踏まえれば、これらの曖昧かつ合理性に欠ける分類を廃してとりたて詞という分類が主流となったことはかなりの妥当性を備えていると考える。

  1. とりたて詞の統語的特徴

 これについては、沼田(2009)を概ね引き継ぐため、彼女の研究を適宜引用しながら論じる。まず沼田(2009)は統語論的特徴を主に四つ挙げている。

  1. 分布の自由性
  2. 任意性
  3. 連体文内性
  4. 非名詞性

 

a分布の自由性

 これは格助詞などと比較して、文中分布は比較的自由なことを指す。具体的には名詞、名  詞+格助詞の連用成文、副詞、述語動詞、形容詞、名詞+copulaなどに後接するほかにも様々な位置に現れることが出来る。しかし、制限がないわけではなく、この分布は係助詞と副助詞を分類する立場の根拠として度々用いられる。山田(1936)によると以下の事が主張される。

α.格助詞と係助詞が共起する場合、必ず格助詞が先行する。

β.格助詞と副助詞が共起する場合、どちらが先行しても良い。

γ.係助詞と副助詞が共起する場合、必ず副助詞が先行する。

 しかし、沼田(2009)は、現代語においてのとりたて詞の分布研究に基づくと、「だけ」「のみ」「ばかり」「など」が、他の語に比較してより広範囲に分布するが、個々の語によって詳細な様相は異なり、5語全体として他と対立するわけではないことをあげ、加えてとりたて詞の典型的分布は格助詞に後接する傾向にあり、従来副助詞は格助詞とどちらが先行しても良いとしていた判断は必ずしもあたらないことから(例:ここから発信した電波が地球の裏側*までに/にまで届くのだ。) 、山田(1936)の分析は現代語においては認めがたいとした上で、係助詞・副助詞の分類はある時期の日本語体系の分類としては適切であったとしても、現代日本語については分布上の対立が緩んでおり、分割するのは不適切だと主張している通り、これを根拠に係助詞・副助詞を区別する程の差異は認められない。

 

b任意性

 とりたて詞はそれが無くとも文が成立するという性質である。以下のαようにとりたて詞を取り除いても、意味は変わってしまうが文としては成立する(一見「も」を取り除けば「僕は年上の人好きだ」となり非文に思われるかもしれないが、これはとりたて詞の承接によって「が」が消去されているものであり、とりたて詞を取り除くときには補ってやらなければならないため、以下のような成文が成立する)。これがとりたて詞の任意性である。一方とりたて詞とは異なるとりたて表現として扱われる形式副詞は取り除くと非文となってしまう。以下のβである。

α.僕は年上の人好きだ。➡ 僕は年上の人好きだ。

β.この消しゴムは驚くほどよく消える。➡ ?この消しゴムは驚くよく消える。

 

c連体文内性

 従来、「は」「も」「こそ」「しか」等、とりたて詞の内一部の語は文末と何らかの呼応を要求するものとして係助詞とされてきた。根拠として考察の最初で述べたように、山田(1936)は係助詞「は」が連体修飾文内の要素となりえないことを挙げて、係助詞全体に通じる特徴としたが、これは間違っており、山田の言う係助詞はほぼ成立せず、とりたて詞はすべて連体修飾文内の要素となりうるという性質。[1]

 

d非名詞性

1.田中だけが悲しそうに沈んでいた。

2.黙って我慢するばかりが必ずしも男らしいとは限らない。

 上の文の「だけ」「ばかり」は体現に準ずる働きをすると考えられていたこともあった。しかし、一般に名詞は連体修飾構造の主名詞になり得るため、上の「だけ」「ばかり」がもし体言に準ずる働きをするならば、主名詞になり得なるはずである。しかし、以下の例を見れば分かるように、「田中だけ」「黙って我慢するばかり」は連体修飾文の主名詞となっておらず、形式名詞の「こと」を補った「黙って我慢すること」のみが主名詞となって成文となっていることから、とりたて詞は名詞性を持たない事がわかる。これを、とりたて詞の非名詞性という。

A.悲しそうに沈んでいた、田中だけ=非文   

B.男らしいとは限らない、黙って我慢するばかり=非文

C.男らしいとは限らない、黙って我慢すること=成文

 

まとめ)沼田(2009)に「とりたて詞は、これら四つの統語特徴である分布の自由性、任意性、連体文内性、非名詞性をすべて有する語であり、このことをもって他の文法範疇と弁別される。」とある通り、とりたて詞を1つのカテゴリーとして扱うにあたって明確な共通性が存在していることは明らかであり、とりたて詞というカテゴリーに統一性が無く、副助詞・係助詞分類を残すべきとする論は合理性を欠くと言わざるをえない。

 

  1. とりたて詞の意味論的特徴

これも沼田(2009etc.)の分類にしたがう。

α自者と他者

β主張と含み

γ肯定と否定

δ断定と想定

 

α自者と他者

とりたて詞がとりたてる対象を自者とすれば、それと対比される自者ではない要素が他者となる。以下の例文で考えると、とりたて詞は累加の意味を持つ「も」であり、それによってとりたてられている要素は「太郎」である。よって「太郎」を自者として、それと対比される次郎が他者となる。

Ex)次郎が昨日学校に行った。太郎行った。

 

β主張と含み

主張というのは、とりたて詞が文中で明示している意味であり、含みというのは明示はされていないが、暗に含意されるものである。以下の例文を考える。ここでは「僕が昨日ラーメンを食べた」というのが明示されている主張であり、「僕以外の誰かは食べていない」というのが、暗に含意されるものである含みとなる。

Ex)僕だけが昨日ラーメンを食べた。

 

γ肯定と否定

 とりたて詞が用いられている文において、先程の自者・他者についてそれぞれ、とりたて詞が除かれた文を、自者を書いたものと他者を自者と置き換えたものを作り、それらと言っているところが一致するかどうかという判断。一致すれば肯定、一致しなければ否定となる。以下の例文を見ると、自者は「僕」、他者は「僕以外の何者か」となる。また、とりたて詞を除くと、右のようになる。この時「僕」について考えると、どちらも年上の人が好きであることを主張しており、自者を肯定しているという風に考えられる。一方他者について考えた時、左の文は「僕以外の何者か」は年上の人が好きだという含みを持っており、右の文の下も同じことを意味するため、他者についても肯定と考える。

Ex)僕年上の人が好きだ。➡ 僕は年上の人が好きだ。[2]

               僕以外の何者かは年上の人が好きだ。

 

δ断定と想定

先の主張及び含みにおける自者・他者に対する肯定・否定などはある事柄に対して、話し手がそれを真または偽として断定するものであった。しかし、とりたて詞の表す意味には真偽を断定せず、話し手や聞き手の自者・他者に対して持つ想定を表すものがある。以下の例文を見ると、自者「太郎」に関しては学校に来ることは確実であり、自者について肯定が断定されている。一方他者「太郎以外の何者か」については、含みは「太郎以外は当然学校に来る」と言うものであるが、実際に太郎以外が来るかは定かではない。それは2,3の文がどちらも自然に成立することから確認できる。この時他者について肯定を想定していると考える。

1.太郎さえ学校に来る。

2.太郎さえ学校に来るのに、次郎は来ていない。

3.太郎さえ学校に来るのだから、クラスメイトは全員来ていた。

 

  1. 最近の係助詞・副助詞分類支持の分析

 青柳(2007)においては、山田・橋本など伝統的国語学で行われた副助詞・係助詞の分類に基づき、その構成要素に見られる特徴を見て、名詞性を帯びた範疇にのみ接続するコピュラの「だ」が係助詞には接続できず、副助詞にのみ接続することや副助詞のみが格助詞が後接しうることなどを挙げて、副助詞・係助詞では副助詞のみが名詞性を持っていることを主張している。ここに関しては橋本の主張とかぶるところも大きい。しかし、ここでとりたて詞の統語論的特徴を振り返れば、非名詞性が挙げられている。その項で説明したとおり、とりたて詞の一部の語は一見名詞性を帯びているように考えられたとしても、実際は持っていないということを示したものである。このことから副助詞は名詞性を帯びる一方で係助詞は帯びていないという風に断定的に分類することは難しく思われる。また、格助詞の後接に関しても、上述の沼田の分布分析により、現代日本語においては従来の副助詞も格助詞が先行することが多いということが分かっており、青柳の副助詞・係助詞にかんするこの分析を認めることは難しいと考える。

 また、青柳(2007)では以下の例文がすべてこの文脈においては、「太郎がピアノを弾く以外のなにごとかが起こったことも意味できる」として、係助詞が動詞句よりも更に広く、文全体を焦点にとることが出来ると主張している。

昨日のパーティーでは、花子がダンスを踊っただけでなく・・・

α太郎がピアノを弾きした

β太郎がピアノ弾いた

γ太郎ピアノを弾いた

 このことから、「係助詞は副助詞と異なり、主語をその作用域内に含むことを予測する。」という結論を得ているが、βの例文はそのように解釈できるか議論の余地があるように思われる。文脈がなければここでの累加の「も」はピアノを焦点としており「太郎がピアノ以外の何かを演奏した」という含みを持つのが自然である。それが、この文脈では曲げられるほどだろうか。表現としてかなりの無理をしなければそのように解釈することは難しいように思われる。実際SNS上で個人的にとったアンケートによると、βの例文に違和感を抱くという意見はかなり多く見られた。簡易的なアンケートであり、結果の信頼性に欠くところはあるが、この例文分析に基づいて青柳の主張するように「係助詞は主語をその作用域内に含むことを予測する。」と言い切ることは強引なのではないかと考える。

 

まとめ)青柳の論文では生成文法理論の立場から、とりたて詞が細かく分析された結果副助詞・係助詞の分類が妥当だと言う結論に至っているが、この章で述べた通り副助詞・係助詞を明確に分類するほどの論拠には乏しく、沼田(2009)などの分析の方がより信頼度が高いように思われる。これを持って副助詞・係助詞の分類が有意だと言うことは出来ないと考える。

 

 

 

 

 

  1. おわりに

 考察で見たとおり、副助詞・係助詞の分類には十分な根拠があるとは言い難く、その有意性も明らかでない。その上、分布分析によれば従来の副助詞の一部は係助詞に近づきつつあるとの結果が出ており、現代日本語において明確に成り立つ分類ではないのではないかと考える。その一方、とりたて詞は明確に定義が決められており、統語論的意味論的特徴も明らかである。これらを総合して、とりたて詞の分類を従来の係助詞・副助詞をとりはらった上に一つの文法範疇として研究することが良いと考える。今後の研究課題としては、青柳(2006,2007etc.)のLF移動分析などは理解しきれなかったため、詳細な検証を突き詰めていきたい。

 

 

参考文献

金水敏工藤真由美、沼田喜子『時・否定と取り立て』(岩波書店、2000)

小林亜希子「とりたて詞の極性とフォーカス解釈」『言語研究』 2009.9/121~151 (日本言語学会編、2009)

「シンポジウム特集 とりたて研究の可能性」『日本語文法』2008/9月号/ 3~53 (日本語文法学会編、2008)

周然飛「とりたて詞「も」の意味の再考 : 基本的な意味と語用論的意味について」  『国語学研究』2017/100~113  (「国語学研究」刊行会、2017)

沼田善子『現代日本語とりたて詞の研究』(ひつじ書房、 2009.2)

沼田善子、野田尚史『日本語のとりたて : 現代語と歴史的変化・地理的変異』(くろしお出版、2003)

日本語記述文法研究会:『現代日本語文法5』(くろしお出版、2009)

野田尚史「日本語のとりたて表現の体系化」『言語』2009/1-3月号/p26~33(大修館書店、2009)

 

 

[1]ここでは、従来係助詞とされてきた対比の「は」「も」などをとりたて詞として扱い、山田の言う係助詞として成立し、連体修飾文内性を持たない主題の「は」についてはとりたて詞から省くこととする。

 

[2] ここにおける「は」は対比ではなく主題の意味であるためとりたて詞ではないことを再度確認しておく。

 

 

 

辞書風定義

とりたて詞 【とりたてし】 【定義】文中の特定の要素を指定し、その要素と同類の他の要素との関係を指定して、文に様々な意味を加える助詞。「も、は、なら、だけ、しか、ばかり、こそ、さえ、まで、でも、だって、なんか、なんて、など、くらい」などがある。主に係助詞にあたったとりたて表現を意味した「とりたて助詞」という用語が初めて用いられたのは、宮田幸一『日本語文法の輪郭』(三省堂1948)においてだった。その後 奥津敬一郎『生成日本語文法論』(大修館書店1974) で初めて副助詞なども含めたとりたて詞という用語が見られる。加える意味の分類は様々にあり、議論も決着がついていないが、ここでは累加、限定、対比、極限、評価、ぼかし、の六種類に分ける。①累加:文中のある要素をとりたてて、他の同類の要素にその意味を加える。「僕もラーメンが食べたい。」②限定:文中のある要素をとりたて、その要素が唯一のものであることを示し、同類の他のものを排除する。「僕だけがラーメンを食べた。」③対比:文中のある要素をとりたてて、それと同類のものとの違いを示す。「僕はラーメンを食べた。」④極限:文中のある要素をとりたてて、同類のものの中で極端なものであることを示す。「歯が痛くて、うどんさえ食べられない。」⑤評価:とりたて要素に対する話し手の評価を含意する。「ネットなんかに熱中せず、外で遊びなさい。」⑥ぼかし:文のある要素をとりたてて、他にも同類の要素があることを暗示して文全体の意味をやわらげることが出来る。「大黒屋、お主もわるよのう。」古代日本語にも存在し、副助詞に当たるが、現代に至って係り結びが消失したことを受けて、現代日本語では副助詞と係助詞を緩やかにまとめ、そのなかでも特定の特徴を持つ助詞群を一括したカテゴリーとして扱われる。最近の研究では青柳宏『とりたて詞の統語的、形態的ふるまいについて』で述べられているように、係り結びは存在せずとも、係助詞・副助詞の区別は必要だとする意見も出されているが、反対意見もあり決着はついていない。また言語学の分野では、フォーカス(焦点)という似た概念が存在するが、とりたて詞とイコールではなく、小林亜希子『とりたて詞の極性とフォーカス解釈』によると、とりたて詞は新情報のマーカーであり、条件が揃って初めてとりたて詞はフォーカス認定される。この意見は全研究者の共通見解ではないが、フォーカスととりたて詞との間に差異があるという説は有力である。【統語論的特徴】主に三つが挙げられる。①分布が比較的自由:文の内部でとりたての対象と出来る要素の幅が格助詞などと比べて比較的広い。②無くとも文が成立する。③連体修飾文中の要素になりうる。【意味論的特徴】沼田善子によると四組八個の基本的要素をもって体系的に意味を分析できる。①自者と他者:とりたてられる要素を自者として、それに対比される同類の要素が他者。②明示される主張と含み:とりたて形式の文章においては、直接発現する主張と、それによって暗示的に示される内容がある。③肯定と否定:とりたて表現の文章の意味が、とりたて詞を除いた時の文章の意味と自者・他者についてそれぞれ一致するかと言うもの。自者について一致すれば自者を肯定と考える。一般にとりたて詞は意味としては自者を肯定する。④断定と想定:自者・他者について、肯定・否定を断定する場合以外にも想定に留める場合がある。

[参考文献]金水敏工藤真由美、沼田喜子『時・否定と取り立て』(岩波書店、2000) 、小林亜希子「とりたて詞の極性とフォーカス解釈」『言語研究』 2009.9/121~151 (日本言語学会編、2009)、日本語記述文法研究会:『現代日本語文法5』(くろしお出版、2009)、沼田善子『現代日本語とりたて詞の研究』(ひつじ書房、2009.2)、沼田善子、野田尚史『日本語のとりたて : 現代語と歴史的変化・地理的変異』(くろしお出版、2003)、野田尚史「日本語のとりたて表現の体系化」『言語』2009/1-3月号/p26~33(大修館書店、2009)