底辺の日記

底辺が日常の何かを脈絡もなく書き散らかします。英語のお話、日本語のお話などなど

「勉強法」の落とし穴

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このブログを見てくださる超希少種の皆さんお久しぶりです、底辺です。

久しぶりにブログを書こうと思い立ったのは、友人がブログをはじめて結構頻繁に更新しているっていうのを聞いて何となく書きたいなーと思ったからなんですけど、そうなると次にしなきゃなのはテーマ探しですね。何を書こうか10分ぐらい寝転んで考えたんですけど、全然思いつかないので結局お勉強のお話です。

勉強法って結構話題に上がりますよね。〜したら偏差値が30上がったとか、〜日間で英語が話せるようになる方法とか。。世の中効率のいい勉強法を謳う書籍や記事で溢れかえってます。

でもどうなんでしょう。実際ああいうのをやって実力がついたっていう人あんまり周りにいません。それどころかあれはダメだった、今度はこっちをやってみようとばかりに勉強法をコロコロ変えてばかりいる人も少なくありません。その心理は、「あんなに実力のある人が、これをやれば簡単に実力を付けられると言っているんだから間違っている訳がない。」こんな感じでしょうか?でもよくよく考えてみると、当たり前ですけど実力のある方々(英語でも数学でもなんでも)はそれ相応の努力をしてるんですよね。30日で出来るって言ってる方々は大概30日どころか何年も何十年も研鑽を積んでいる人ばかりです。そんな凄い方々が膨大な労力を注いで手に入れた実力がそう簡単に身につくわけが無いんです。

 

ここまで読んで、効率のいい勉強法は存在するだろアホかこいつと思った方々はここで読むのをやめずにもう少しお付き合いください。

 

もちろん勉強法には効率の良し悪しがあるでしょうし、向き不向きもあるでしょう。その上で自分にあった勉強法を探すのは否定しませんし、それどころか是非やってください。ただ、巷に溢れているように、その方法でやれば劇的に変わるとか、短期間で身につけられるなどといった甘言に惑わされないようにしましょう。たとえ効率のいい勉強をしたとしても、勉強している時間に何倍もの差があれば実力で追いつくことはかなり難しいでしすし、「勉強」つまり新しいことを吸収し、その復習を欠かさないという基本が出来ていれば、質にそこまでの劇的な差が出ることはまれです。そうなれば、量が正義、がむしゃらにやったもん勝ちです。

 

ここまでは色々な分野に普遍的に言えそうなことを言ってきたのですが、やっぱり英語について語りたいので、例として英語を題材にしましょう。

 

英語は日本人にはコンプレックスを抱えている人が多いようで(かくいう筆者はまさに英語コンプレックスばりばりです)、参考書のたぐいが群を抜いて多く販売されています。「英語は10単語で話せる」,「10日で英語が話せる」のような本(タイトルは適当です。)も書店に行けば良く目にします。しかし、英語を使えるようになりたいなら、基本的な文法と語彙を抑えた上で、ひたすら読み、聞きましょう。(書くと話すを除いたのは、ある程度のインプットがなければ不可能だと個人的に考えるためです。)英語に関しては特に、勉強法などという幻想を追いかけるよりも、多くの英文に触れた方が圧倒的に強いようです。周りの本当に英語が出来る人たちを見てみましょう、常日頃からかなりの量の英語に触れていませんか?聞いてみましょう、「30日で話せるようになったんですか?」十中八九答えはnoです。

 

ここらでお腹が空いてきたのでおわりましょう。とにかく勉強法を探すのを勉強だと思ってはいけません。勉強法を確定したらそこから始まるのが勉強です。頑張りましょう。

 

 

 

 

 

 

この記事は筆者への自戒によって90%以上が構成されています。

シモネタ概論(友人作)

  今回は、友人がブログのネタにしろとこのような長文を書いてくれたため、その熱意を無駄にするのも心苦しく、掲載する運びとなりました。ありがと某KO生。

 

  古来から、下ネタを嫌うなんとも悲しい人間が存在する。ぼくが自分の右曲がり包茎ちんぽについて語り出せば、きっと彼らは顔をしかめ、「気持ち悪い」だとか「なんだこのガイジは...」と思うことだろう。

  下ネタをいうことがそんなに悪いことなのか。ここでは公共の場で下ネタを言うことについて語っていこうと思う。

  突然だが、ぼくは所構わず下ネタを言う人間である。自分でも別にこれは悪いことではないと思っている。下ネタというのは、会話のきっかけにしやすい万能ツールである。

例1
A「あーうんこ行きてえなあ」

B「早く行ってこいよ」

C「ついでに俺も行く」

B「お前さっきうんこしただろ!」

C「実は俺便秘でさ〜(ここで自分の便秘が如何に辛いかを熱弁)」

  うんこと言えば、浪人中のぼくはトイレによく行ってました。別にうんこがしたかったわけじゃないんです。トイレ、特に個室の空間がぼくにとって何だかとても安心した気持ちになれる場所でした。

  浪人中、予備校で一切友達を作らなかったぼくは休み時間、ガヤガヤ煩い教室を出てトイレに駆け込み、そこで睡眠してました。トイレットペーパーホルダーに腕を置き、その上に頭を乗せる感じで寝ていたのです。いつしかぼくは授業にも出なくなり、代わりにトイレで過ごす時間が多くなりました。家で寝れば良いじゃないかと言われるかもしれませんが、寝ていると親に勉強しろと言われて叩き起こされるので、誰にも邪魔されず心から安心して寝られる場所はトイレぐらいしかなかったのです。

  講習がある日なんかは、朝9時ごろからトイレに入って、夜の9時に出るなんてこともざらにありました。ぼくは3階の一番奥のトイレをほぼ常に占拠していたので、誰かが来るとよく、「またあそこ閉まってるよ」「どうせすぐ出ないから違う階に行こう」
みたいな声が聞こえたものです。

  ただまあ、トイレ占拠民をぼくだけじゃなかったみたいで、ぼくの友人の一人に、「俺もよくトイレにいる」とか言ってるやつもいたし、そもそも本当にうんこしたい時に個室が全部閉まってて、そのまま休み時間が終わるまで誰も出てこない、なんてこともありましたね。

  トイレだけに糞みたいな思い出です。話を戻します。

例2
A「昨日5回もシコっちゃったよ」

B「オカズは?」

A「To Loveる

B「モモちゃんすこだw」

A「モモ嫌い美柑好き。(ここから美柑の魅力について語る)」

  可愛くないですか?ぼくは別にロリコンではないのですが、控えめなお胸が好きで巨乳が多いTo Loveるの中では美柑は僕にとってちょうど良い大きさなのです。

  まず王道の黒髪ロング。これだけでも相当ポイント高い。他の宇宙人とかピンク髪だし、ありえねーわ。

  そして妹キャラでもある。これは妹がいないぼくにとってある種の理想なんです。しかもこいつ小6のくせに高2の兄と風呂入るんだよ?どんな頭してんだ(褒め言葉)はああああああああああエッチすぎるよおおおおお
ピギィィィィィィィィィイイイイイイイイイイイイィィィィィィィィイイイイイイイイイイイイアアアアアアアアアァァァァァァァァァァァァアア!!!!!!!!!!!!!
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  少々取り乱してしまいました。話を戻します。

  さて、以上に示したのはほんの一例で下ネタというのは無限の会話の可能性を秘めています。会話になればそれでいいし、ならなくても別にいいのです。
  あなたが一言「おちんぽ。」と発言し、会話がなかったとしよう。この場合この「おちんぽ」という言葉にはどのような意味が込められているか。男性器?ペニス?ソーセージ?エクスカリバー? 

 

  ない。意味なんてないのだ。

 

  何も発言してないのと一緒。今のはナシ。何も起きてないこととして時間だけが進む。そして再び会話のチャンスが訪れれば、そこから話を膨らませていけばいい。

  つまり下ネタを使えばなんのリスクも無く、タダで会話のきっかけを作れるのだ。パズドラの無料ガチャみたいなもんである。(フェス限であれば普通に嬉しいし、銀卵でも「まあ、無料だしな」で済む)

  事実、ぼくの周りにはLINEで「うんち!」とか「ちんこ!」と一言だけ発言する輩がいる。これはある種の生存報告でもあるのだが、会話のきっかけを狙ったものでもある。
  「うんち!」に誰かが反応して、「そういえば俺今日さあ...」となったら、もうそれは会話の始まりである。(どうせくっだらねえ事しか言わんだろうが)
  しかし、誰も反応しなくてもそれはそれで良いのだ。

「ああ、今は皆忙しいのだな」

これだけで済む。

  また、下ネタによって引き起こされる笑いも、下ネタの意義の一つであろう。誰かがふと「うんち!」と言ったのを聞くだけで、何故だか笑いがこみ上げて来るというものだ。
  こうした下ネタによる笑いに関して三重大学が面白い研究結果をあげている。

  「(中略)以上のように、本研究の結果は、下品な笑いは 4歳 頃の子どもに最も多く見られ、5、6歳頃になると徐々 に沈静化していくという友定(193)の考察から得ら れた本研究の仮説をほぼ支持するものであった。こう した発達をたどる理由としては、友定(193)も指摘 するように、4歳頃になると友達を強く意識し、笑い 合う状況を作り出すことによって友達との間に親和的関係を築きたい、あるいは確認したいという、この時 期特有の発達要求が子どもの中で生じてくることと無 関係ではなかろう。友達と笑い合う状況を作り出した いものの、笑いをとるための知識も技術もまだ十分で はない 4歳児にとって、下品な笑いは手っ取り早く笑 いが取れる唯一の方法であり、ゆえにこの時期、こう した笑いが多く生じるようになるものと思われる。実 際、先述のような姿が 4、5歳の子どもにおいて多く 確認されるようになることは、先行研究でも確認され ている。例えば、西川(203)は、特に男児において、 4歳以前は自分のことを家でも外でも「〇〇ちゃん」「〇〇くん」と愛称で呼んでいた子どもが、4歳を過 ぎると家では愛称で呼ぶが、外では「オレ」というよ うに同年齢の仲間の前でいわば「勇ましい」姿を示す ようになることを明らかにしている。このことは、4 歳の彼らが友達を強く意識し、友達の前で自分がどの ように見えるかを強く意識し始めたことの証左に他な らない。また、友達との間に親和的関係を築き、確認 し合いたいという願いに関しては、中田(204)の研 究が挙げられる。彼は子どものじゃれる・じゃれ合う という行為に着目し、幼児期におけるその発生頻度を 観察した結果、特に 4歳児においてそうした行為が多 く見られることを報告している。このことは、友達と の間に親和的関係を築き、確認し合いたいと欲するも のの、それを実現するだけの知識も技術もまだ十分で はない彼らが、手っ取り早い方法としてじゃれる・じゃ れ合うという行為に頼っていると解釈することができ よう。そして、それは下ネタやギャグによる下品な笑 いに頼る姿と一致する姿である。」
参考文献:富田昌平、藤野和也「用事も下品な笑いの発達」(『三重大学教育学部研究紀要 第 67巻 教育科学 』2016)161- 167頁

  この研究は保育園の児童に対して「うんち」などの下ネタで笑うかといったことを親にアンケートをとり、さらに下品な笑いに対する親の態度を聞いたものである。
  やはり下ネタはまだまだ未熟な4、5歳児にとっても非常に扱いやすいコミュニケーションツールなのだ。

  ところで、会話で最も重要なのは「共感」である。
  「あーそれあるある!」「分かるわー」
こうした共感があれば会話は極めてスムーズに進む。自分の知っていることや興味のあることは頭に入りやすいし、理解もしやすいからだ。

  思えば、性器というのは人間なら誰しもがついているものであり、さらに排泄という行為も人間はおろか動物なら必ずする事である。
  これらは人類としての共通項であり、「共感」を重視する会話においてまさに格好の題材ではないか。やはり下ネタを会話のきっかけとすることは、自然の摂理なのだ。

下ネタ万能論ここに極まれり。

  一方で先程も言ったが、この万能な下ネタが通じない人間も存在する。(ポケモンで言えばドラゴン技が無効のフェアリータイプみたいなもんである。)

まあぶっちゃけ言うと女性、である。

彼女らに下ネタはまず通じないと思った方が良いだろう。もし言ってしまえば死んだも同然である。ドン引きされるのは間違いないし、多分女子の間でも噂になって、一生童貞でしかいられなくなるだろう。

  じゃあなぜ彼女らはそこまで下ネタを嫌うのか?ぼくは究極の答えを発見した。

 

 

それは、下ネタが下品で汚いからです。

読者「なんだこのクソ記事は!」
ぼく「うんち!」

おわり

今日の英文解釈

英文解釈をしていて気になった問題を取り上げました。(思考訓練の場としての英文解釈2巻に入っている問題です。)

Many persons lose all enjoyment of certain flowers by indulging false associations. There are some who think that no weed can be of interest as a flower. But all flowers are weeds where the grow wildly and abundantly; and somewhere our rarest flowers are somebody's commonest. Generally, also, there is a deposition to undervalue common flowers. There are few that will trouble themselves to examine minutely a blossom that they have seen and neglected from their childhood; and yet, if they would but question such flowers, and converse with them, they would often be surprised to find extreme beauty where it had long been overlooked. A very common flower adds generosity to beauty. It gives joy to the poor, the rude, and to the multitudes who could have no flowers were Nature to charge a price for her blossoms. Is a cloud less beautiful, or a sea or a mountain, because often see, or seen by millions? (42年 大阪女子大)

元の入試問題の設問は分かりませんが、この文章の分かりにくいこと・・・かなりの悪文だろ!と言いたくなりますね。躓くポイントは色々有るのですが、ここでは下線部のbutだけ取り上げます。理由はまあ一番気付けるべきなのに気付きにくいからですね(´・ω・`)

文の構造を見れば分かる通り、このbutは文同士、節同士、句同士などを繋いでいるわけではないので、接続詞ではありません。questionという単語がここでは動詞となっているのは明らかである以上、副詞と考えるのが妥当です。ここで知っているか知らないかの問題になってしまうのですが、副詞のbutはonlyと同じ意味で、言い換えとして用いられるものがあります。それを踏まえれば、

if they would only question such flowers, and converse with.....

と書き換えることが出来ますが、onlyが動詞の直前に移動しやすいことを考えると、この文章はif only...の表現と同意だと推測できます。勿論英文解釈の根拠は最終的には、意味が通るか否かが正誤を分ける基準なため、意味の確認をする必要はあります。

しかし、「そのような花に問いかけ、会話しさえすれば、長い間見過ごしてきたところに極まった美を見出し驚くことも多いだろう。」となるので意味としても自然でしょう。

 

一応全文訳を掲載します。

「誤った連想をしてしまうゆえに、ある花を楽しむことが全く出来なくなってしまうと言う人が沢山いる。雑草は花として興味を引くものではないと考えるものも居るが、すべての花と言うのは、それが野生のまま繁茂しているような場所では雑草である。そして、ある場所では我々にとって非常に貴重な花が、ある人にとってはありふれたものなのだ。また一般的に、人にはありふれた花を軽んじる性質が有り、子供の頃からよく目にし、無視してきた花を、わざわざ詳細に調べてみようとするものは滅多にいない。しかし、そのような花に問いかけ、会話しさえすれば、長い間見過ごしてきたところに極まった美を見出し驚くことも多いだろう。とてもありふれた花はその美しさに寛容さを加える。それは自然の女神が花の料金を請求したなら、花を持つことが出来ない貧乏人、無礼者、大衆に喜びを与えるのだ。雲や海や山は、頻繁に見られるからと言って、また多くの目に触れるからといって、少しでも美しくないなどということが有るだろうか。(いや有るはずがない。)」

 

ちなみにwere Nature...の部分はbe動詞が前に出て、倒置を起こすことでifが省かれる仮定法過去です。

 

 

 

 

日本語のとりたて詞について

日本語には「とりたて詞」と言われる一群の語句があります。例えば、「君が彼を殺した」と言う時の「が」は他の誰でもなく君がという風に、主語の「君」をとりたてます。

前にそんなとりたて詞について大学でレポートを書いたのを思い出したので、どうせならと思い、取り上げてみました。全部読むのはとても退屈な気もするので、最後に辞書の項目風にしたものを載せます。それだけ読んでいただければ大体わかると思います(゚∀゚)

 

私達が日々使っている日本語も考えてみると面白いと思っていただければ嬉しいです。

 

 

レポート

  1. はじめに

 初年次ゼミナール日本語学辞典を作ろうという本講義で、自分がとりたて詞について研究し、授業内で行った発表に対して出た一つの質問が今回の研究レポートのテーマを考える上で浮かんだ。その質問は「副助詞と係助詞ととりたて詞ではどういう相互関係があるのか」というものであり、その場では明確な答えを出すことができなかったため、個人的に調べてみたところ学者によって分類が違い、明確な答えが出ない。というのも、完成稿にも記した通りとりたて詞というものが、従来の係助詞と副助詞という分類を取り払い、その中から共通の統語論的・意味論的特徴を持つものをまとめた分類であるというのは間違いないのだが、日本語助詞研究に大きな成果を残した山田・橋本などの係助詞・副助詞の定義は曖昧であったり、妥当性を欠いていたりしたために、これと言って定まるところがなかったからだ。現在に至っても、副助詞・係助詞という分類が行われるべきとする説と、とりたて詞として一括で扱うべきという説が混在している。これを踏まえて、本稿ではとりたて詞という分類を再考し、係助詞・副助詞分類をするメリット・デメリットを考慮しながら、今後の研究はどちらの分類に妥当性があるのかを明らかにしたい。

 

 

  1. 先行研究

 とりたて詞という分類に関する詳しい先行研究のまとめは沼田(2009)にあるため、本稿では軽く扱うにとどめる。

 まず、初めて「取立て助詞」という用語を用いたのは宮田(1948)であり、「取立て助詞というのは句の一部を特に取立てて、その部分をそれぞれ別の意味において強調する助詞である。」と定義した。しかし、宮田の分類では一般的な文法分類における係助詞に限定されたものであった点や、意味分類の適当性の点などで疑問の余地が多い。

 奥津(1973、1974)は従来の副助詞・係助詞を「形式副詞」「不定数量限定詞」「とりたて詞」「並列接続助詞」に分類した。この研究は統語論的特徴によって明確な品詞分類がなされている点が新しかった。

 寺村(1981)は従来の副助詞・係助詞を「取立て助詞」として一括した。これを「コトを描くにあたって、あるいは描き上げつつ、それの付着する構文要素を際立たせ、そのことによって自分のコトに対する見方を相手に示そうとする」と定義している。また統語論的特徴として、分布の任意性に触れていたが、他の要素に触れておらず、十分とはいえない。

 沼田(2009)は奥津(1973、1974)の方針を受け継ぎ、発展させる形で意味論的特徴・統語論的特徴から「とりたて詞」というものをかなり具体的に記述している。沼田の研究についてはとりたて詞研究を総括したような形であり、妥当性が認められるため、本稿では基本的に沼田(2009)のとりたて詞分析を肯定した形で論を展開することとするため、この研究は後の章で詳しく取り上げる。

 青柳宏(2007)は沼田・奥津を始めとした研究者とはスタンスを変え、理論言語学の立場から、Chomskyの生成文法理論を用いたとりたて詞研究を行い、伝統的国語学で山田・橋本などが主張した係助詞・副助詞の区別は焦点結合の最大領域や同一単文内の他の数量詞との相対的作用域の違いを説明するために不可欠なものであると主張した。この研究についても沼田らのとりたて詞を一つの括りとしてみなすべきとする意見に対立する研究であり、本稿の重要な考察対象となるため、後に再び取り上げる。

 

 

  1. 考察
  2. 従来の係助詞・副助詞分類の問題点

 山田(1936)では係助詞を「陳述をなす用語に関係ある後に附属して、その陳述に勢力を及ぼすもの」とし、属する語として「は」「も」「こそ」「さえ」「でも」「ほか」「しか」を挙げているが、奥津(1986)でも指摘されている通り、陳述に勢力が及ぶという定義は山田が挙げている語のうち「は」にしか当てはまらない。というのは、以下の例を見れば分かるように、連体修飾文内で使われ、文末の陳述まで係助詞の勢力は及んでいないがどれも成文となっているからだ。

例 1.私も知っている事実

   2.次郎にこそ話したい事実

  3.子供さえ分かること

   4.太郎にしか出来ない仕事                  (奥津(1986)から改変)

ゆえに、山田の言うような係助詞は多くが成立しなくなるという点で大きな問題を抱えていた。

 橋本(1969)は係助詞を「つづく助詞で、用言につづく種々の語(並びに之に附属辞をつけたもの)につく。さうしてそのつづきやうに或修飾制限を加へるもの」としている。山田と異なる点としては、陳述に勢力を及ぼすという風には考えなかったが「そのつづきやうに或修飾制限を加へるもの」というのは定義として極めて曖昧である。一方副助詞は同じく橋本(1969)に於いて「それ自らでは、きれつづきの明でないもので、用言につづく語については、係助詞の如く、その語と用言とのつづきやうを修飾制限する。又体現又は用言については、これと共に、文節構成の要素として体現と同じように用ゐられる。つまり連用的用法と体言適用法・・・(中略)・・・とを兼ねてゐるもの」と定義されている。奥津(1986)ではこれは分布という基準から見ればある程度妥当であるが、文法的に見ると不適切ではないかと指摘されている。橋本は副助詞が連用的用法と体言的用法を兼ねると言っているが、連用的用法は副詞の働きであり、体言的用法は名詞のそれであるのだから、名詞と副詞が基本的品詞として分類される以上これらを混同する説には合理性が欠ける上、橋本のいう係助詞が連用的なものであるなら、副助詞の連用的用法は係助詞に統合されるべきではないかという指摘だ。更には、根本的に係助詞に連用的な働きはなく、副助詞にも連用的及び体言的働きなどないということを踏まえれば、これらの曖昧かつ合理性に欠ける分類を廃してとりたて詞という分類が主流となったことはかなりの妥当性を備えていると考える。

  1. とりたて詞の統語的特徴

 これについては、沼田(2009)を概ね引き継ぐため、彼女の研究を適宜引用しながら論じる。まず沼田(2009)は統語論的特徴を主に四つ挙げている。

  1. 分布の自由性
  2. 任意性
  3. 連体文内性
  4. 非名詞性

 

a分布の自由性

 これは格助詞などと比較して、文中分布は比較的自由なことを指す。具体的には名詞、名  詞+格助詞の連用成文、副詞、述語動詞、形容詞、名詞+copulaなどに後接するほかにも様々な位置に現れることが出来る。しかし、制限がないわけではなく、この分布は係助詞と副助詞を分類する立場の根拠として度々用いられる。山田(1936)によると以下の事が主張される。

α.格助詞と係助詞が共起する場合、必ず格助詞が先行する。

β.格助詞と副助詞が共起する場合、どちらが先行しても良い。

γ.係助詞と副助詞が共起する場合、必ず副助詞が先行する。

 しかし、沼田(2009)は、現代語においてのとりたて詞の分布研究に基づくと、「だけ」「のみ」「ばかり」「など」が、他の語に比較してより広範囲に分布するが、個々の語によって詳細な様相は異なり、5語全体として他と対立するわけではないことをあげ、加えてとりたて詞の典型的分布は格助詞に後接する傾向にあり、従来副助詞は格助詞とどちらが先行しても良いとしていた判断は必ずしもあたらないことから(例:ここから発信した電波が地球の裏側*までに/にまで届くのだ。) 、山田(1936)の分析は現代語においては認めがたいとした上で、係助詞・副助詞の分類はある時期の日本語体系の分類としては適切であったとしても、現代日本語については分布上の対立が緩んでおり、分割するのは不適切だと主張している通り、これを根拠に係助詞・副助詞を区別する程の差異は認められない。

 

b任意性

 とりたて詞はそれが無くとも文が成立するという性質である。以下のαようにとりたて詞を取り除いても、意味は変わってしまうが文としては成立する(一見「も」を取り除けば「僕は年上の人好きだ」となり非文に思われるかもしれないが、これはとりたて詞の承接によって「が」が消去されているものであり、とりたて詞を取り除くときには補ってやらなければならないため、以下のような成文が成立する)。これがとりたて詞の任意性である。一方とりたて詞とは異なるとりたて表現として扱われる形式副詞は取り除くと非文となってしまう。以下のβである。

α.僕は年上の人好きだ。➡ 僕は年上の人好きだ。

β.この消しゴムは驚くほどよく消える。➡ ?この消しゴムは驚くよく消える。

 

c連体文内性

 従来、「は」「も」「こそ」「しか」等、とりたて詞の内一部の語は文末と何らかの呼応を要求するものとして係助詞とされてきた。根拠として考察の最初で述べたように、山田(1936)は係助詞「は」が連体修飾文内の要素となりえないことを挙げて、係助詞全体に通じる特徴としたが、これは間違っており、山田の言う係助詞はほぼ成立せず、とりたて詞はすべて連体修飾文内の要素となりうるという性質。[1]

 

d非名詞性

1.田中だけが悲しそうに沈んでいた。

2.黙って我慢するばかりが必ずしも男らしいとは限らない。

 上の文の「だけ」「ばかり」は体現に準ずる働きをすると考えられていたこともあった。しかし、一般に名詞は連体修飾構造の主名詞になり得るため、上の「だけ」「ばかり」がもし体言に準ずる働きをするならば、主名詞になり得なるはずである。しかし、以下の例を見れば分かるように、「田中だけ」「黙って我慢するばかり」は連体修飾文の主名詞となっておらず、形式名詞の「こと」を補った「黙って我慢すること」のみが主名詞となって成文となっていることから、とりたて詞は名詞性を持たない事がわかる。これを、とりたて詞の非名詞性という。

A.悲しそうに沈んでいた、田中だけ=非文   

B.男らしいとは限らない、黙って我慢するばかり=非文

C.男らしいとは限らない、黙って我慢すること=成文

 

まとめ)沼田(2009)に「とりたて詞は、これら四つの統語特徴である分布の自由性、任意性、連体文内性、非名詞性をすべて有する語であり、このことをもって他の文法範疇と弁別される。」とある通り、とりたて詞を1つのカテゴリーとして扱うにあたって明確な共通性が存在していることは明らかであり、とりたて詞というカテゴリーに統一性が無く、副助詞・係助詞分類を残すべきとする論は合理性を欠くと言わざるをえない。

 

  1. とりたて詞の意味論的特徴

これも沼田(2009etc.)の分類にしたがう。

α自者と他者

β主張と含み

γ肯定と否定

δ断定と想定

 

α自者と他者

とりたて詞がとりたてる対象を自者とすれば、それと対比される自者ではない要素が他者となる。以下の例文で考えると、とりたて詞は累加の意味を持つ「も」であり、それによってとりたてられている要素は「太郎」である。よって「太郎」を自者として、それと対比される次郎が他者となる。

Ex)次郎が昨日学校に行った。太郎行った。

 

β主張と含み

主張というのは、とりたて詞が文中で明示している意味であり、含みというのは明示はされていないが、暗に含意されるものである。以下の例文を考える。ここでは「僕が昨日ラーメンを食べた」というのが明示されている主張であり、「僕以外の誰かは食べていない」というのが、暗に含意されるものである含みとなる。

Ex)僕だけが昨日ラーメンを食べた。

 

γ肯定と否定

 とりたて詞が用いられている文において、先程の自者・他者についてそれぞれ、とりたて詞が除かれた文を、自者を書いたものと他者を自者と置き換えたものを作り、それらと言っているところが一致するかどうかという判断。一致すれば肯定、一致しなければ否定となる。以下の例文を見ると、自者は「僕」、他者は「僕以外の何者か」となる。また、とりたて詞を除くと、右のようになる。この時「僕」について考えると、どちらも年上の人が好きであることを主張しており、自者を肯定しているという風に考えられる。一方他者について考えた時、左の文は「僕以外の何者か」は年上の人が好きだという含みを持っており、右の文の下も同じことを意味するため、他者についても肯定と考える。

Ex)僕年上の人が好きだ。➡ 僕は年上の人が好きだ。[2]

               僕以外の何者かは年上の人が好きだ。

 

δ断定と想定

先の主張及び含みにおける自者・他者に対する肯定・否定などはある事柄に対して、話し手がそれを真または偽として断定するものであった。しかし、とりたて詞の表す意味には真偽を断定せず、話し手や聞き手の自者・他者に対して持つ想定を表すものがある。以下の例文を見ると、自者「太郎」に関しては学校に来ることは確実であり、自者について肯定が断定されている。一方他者「太郎以外の何者か」については、含みは「太郎以外は当然学校に来る」と言うものであるが、実際に太郎以外が来るかは定かではない。それは2,3の文がどちらも自然に成立することから確認できる。この時他者について肯定を想定していると考える。

1.太郎さえ学校に来る。

2.太郎さえ学校に来るのに、次郎は来ていない。

3.太郎さえ学校に来るのだから、クラスメイトは全員来ていた。

 

  1. 最近の係助詞・副助詞分類支持の分析

 青柳(2007)においては、山田・橋本など伝統的国語学で行われた副助詞・係助詞の分類に基づき、その構成要素に見られる特徴を見て、名詞性を帯びた範疇にのみ接続するコピュラの「だ」が係助詞には接続できず、副助詞にのみ接続することや副助詞のみが格助詞が後接しうることなどを挙げて、副助詞・係助詞では副助詞のみが名詞性を持っていることを主張している。ここに関しては橋本の主張とかぶるところも大きい。しかし、ここでとりたて詞の統語論的特徴を振り返れば、非名詞性が挙げられている。その項で説明したとおり、とりたて詞の一部の語は一見名詞性を帯びているように考えられたとしても、実際は持っていないということを示したものである。このことから副助詞は名詞性を帯びる一方で係助詞は帯びていないという風に断定的に分類することは難しく思われる。また、格助詞の後接に関しても、上述の沼田の分布分析により、現代日本語においては従来の副助詞も格助詞が先行することが多いということが分かっており、青柳の副助詞・係助詞にかんするこの分析を認めることは難しいと考える。

 また、青柳(2007)では以下の例文がすべてこの文脈においては、「太郎がピアノを弾く以外のなにごとかが起こったことも意味できる」として、係助詞が動詞句よりも更に広く、文全体を焦点にとることが出来ると主張している。

昨日のパーティーでは、花子がダンスを踊っただけでなく・・・

α太郎がピアノを弾きした

β太郎がピアノ弾いた

γ太郎ピアノを弾いた

 このことから、「係助詞は副助詞と異なり、主語をその作用域内に含むことを予測する。」という結論を得ているが、βの例文はそのように解釈できるか議論の余地があるように思われる。文脈がなければここでの累加の「も」はピアノを焦点としており「太郎がピアノ以外の何かを演奏した」という含みを持つのが自然である。それが、この文脈では曲げられるほどだろうか。表現としてかなりの無理をしなければそのように解釈することは難しいように思われる。実際SNS上で個人的にとったアンケートによると、βの例文に違和感を抱くという意見はかなり多く見られた。簡易的なアンケートであり、結果の信頼性に欠くところはあるが、この例文分析に基づいて青柳の主張するように「係助詞は主語をその作用域内に含むことを予測する。」と言い切ることは強引なのではないかと考える。

 

まとめ)青柳の論文では生成文法理論の立場から、とりたて詞が細かく分析された結果副助詞・係助詞の分類が妥当だと言う結論に至っているが、この章で述べた通り副助詞・係助詞を明確に分類するほどの論拠には乏しく、沼田(2009)などの分析の方がより信頼度が高いように思われる。これを持って副助詞・係助詞の分類が有意だと言うことは出来ないと考える。

 

 

 

 

 

  1. おわりに

 考察で見たとおり、副助詞・係助詞の分類には十分な根拠があるとは言い難く、その有意性も明らかでない。その上、分布分析によれば従来の副助詞の一部は係助詞に近づきつつあるとの結果が出ており、現代日本語において明確に成り立つ分類ではないのではないかと考える。その一方、とりたて詞は明確に定義が決められており、統語論的意味論的特徴も明らかである。これらを総合して、とりたて詞の分類を従来の係助詞・副助詞をとりはらった上に一つの文法範疇として研究することが良いと考える。今後の研究課題としては、青柳(2006,2007etc.)のLF移動分析などは理解しきれなかったため、詳細な検証を突き詰めていきたい。

 

 

参考文献

金水敏工藤真由美、沼田喜子『時・否定と取り立て』(岩波書店、2000)

小林亜希子「とりたて詞の極性とフォーカス解釈」『言語研究』 2009.9/121~151 (日本言語学会編、2009)

「シンポジウム特集 とりたて研究の可能性」『日本語文法』2008/9月号/ 3~53 (日本語文法学会編、2008)

周然飛「とりたて詞「も」の意味の再考 : 基本的な意味と語用論的意味について」  『国語学研究』2017/100~113  (「国語学研究」刊行会、2017)

沼田善子『現代日本語とりたて詞の研究』(ひつじ書房、 2009.2)

沼田善子、野田尚史『日本語のとりたて : 現代語と歴史的変化・地理的変異』(くろしお出版、2003)

日本語記述文法研究会:『現代日本語文法5』(くろしお出版、2009)

野田尚史「日本語のとりたて表現の体系化」『言語』2009/1-3月号/p26~33(大修館書店、2009)

 

 

[1]ここでは、従来係助詞とされてきた対比の「は」「も」などをとりたて詞として扱い、山田の言う係助詞として成立し、連体修飾文内性を持たない主題の「は」についてはとりたて詞から省くこととする。

 

[2] ここにおける「は」は対比ではなく主題の意味であるためとりたて詞ではないことを再度確認しておく。

 

 

 

辞書風定義

とりたて詞 【とりたてし】 【定義】文中の特定の要素を指定し、その要素と同類の他の要素との関係を指定して、文に様々な意味を加える助詞。「も、は、なら、だけ、しか、ばかり、こそ、さえ、まで、でも、だって、なんか、なんて、など、くらい」などがある。主に係助詞にあたったとりたて表現を意味した「とりたて助詞」という用語が初めて用いられたのは、宮田幸一『日本語文法の輪郭』(三省堂1948)においてだった。その後 奥津敬一郎『生成日本語文法論』(大修館書店1974) で初めて副助詞なども含めたとりたて詞という用語が見られる。加える意味の分類は様々にあり、議論も決着がついていないが、ここでは累加、限定、対比、極限、評価、ぼかし、の六種類に分ける。①累加:文中のある要素をとりたてて、他の同類の要素にその意味を加える。「僕もラーメンが食べたい。」②限定:文中のある要素をとりたて、その要素が唯一のものであることを示し、同類の他のものを排除する。「僕だけがラーメンを食べた。」③対比:文中のある要素をとりたてて、それと同類のものとの違いを示す。「僕はラーメンを食べた。」④極限:文中のある要素をとりたてて、同類のものの中で極端なものであることを示す。「歯が痛くて、うどんさえ食べられない。」⑤評価:とりたて要素に対する話し手の評価を含意する。「ネットなんかに熱中せず、外で遊びなさい。」⑥ぼかし:文のある要素をとりたてて、他にも同類の要素があることを暗示して文全体の意味をやわらげることが出来る。「大黒屋、お主もわるよのう。」古代日本語にも存在し、副助詞に当たるが、現代に至って係り結びが消失したことを受けて、現代日本語では副助詞と係助詞を緩やかにまとめ、そのなかでも特定の特徴を持つ助詞群を一括したカテゴリーとして扱われる。最近の研究では青柳宏『とりたて詞の統語的、形態的ふるまいについて』で述べられているように、係り結びは存在せずとも、係助詞・副助詞の区別は必要だとする意見も出されているが、反対意見もあり決着はついていない。また言語学の分野では、フォーカス(焦点)という似た概念が存在するが、とりたて詞とイコールではなく、小林亜希子『とりたて詞の極性とフォーカス解釈』によると、とりたて詞は新情報のマーカーであり、条件が揃って初めてとりたて詞はフォーカス認定される。この意見は全研究者の共通見解ではないが、フォーカスととりたて詞との間に差異があるという説は有力である。【統語論的特徴】主に三つが挙げられる。①分布が比較的自由:文の内部でとりたての対象と出来る要素の幅が格助詞などと比べて比較的広い。②無くとも文が成立する。③連体修飾文中の要素になりうる。【意味論的特徴】沼田善子によると四組八個の基本的要素をもって体系的に意味を分析できる。①自者と他者:とりたてられる要素を自者として、それに対比される同類の要素が他者。②明示される主張と含み:とりたて形式の文章においては、直接発現する主張と、それによって暗示的に示される内容がある。③肯定と否定:とりたて表現の文章の意味が、とりたて詞を除いた時の文章の意味と自者・他者についてそれぞれ一致するかと言うもの。自者について一致すれば自者を肯定と考える。一般にとりたて詞は意味としては自者を肯定する。④断定と想定:自者・他者について、肯定・否定を断定する場合以外にも想定に留める場合がある。

[参考文献]金水敏工藤真由美、沼田喜子『時・否定と取り立て』(岩波書店、2000) 、小林亜希子「とりたて詞の極性とフォーカス解釈」『言語研究』 2009.9/121~151 (日本言語学会編、2009)、日本語記述文法研究会:『現代日本語文法5』(くろしお出版、2009)、沼田善子『現代日本語とりたて詞の研究』(ひつじ書房、2009.2)、沼田善子、野田尚史『日本語のとりたて : 現代語と歴史的変化・地理的変異』(くろしお出版、2003)、野田尚史「日本語のとりたて表現の体系化」『言語』2009/1-3月号/p26~33(大修館書店、2009)

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春は何か新しいことをしたくなりますね。「ガチプロのすなるブログなるもの、底辺の私もしてみんとてす。」という事でブログ作ってみました。多分英語の勉強で気になったこと、読んだ本の感想などどうでもいいことを、ゆるーく書いていくと思うので、暇で暇で仕方ないっていう人が居たら読んでいって下さい。